藝術としての詩
「1月投稿作品」三浦個人選評
大賞作品 花の骨 桐ヶ谷忍
優良作品 該当無し
推薦作品 詩国お遍路(1/2,2/2) カオティクルConverge!!貴音さん♪
Ⅰ.『花の骨』コメント欄から
2018年1月投稿作品の三浦個人選評。大賞作品『花の骨』。まずは『花の骨』のコメント欄から注目したコメントを紹介したい。
・全体が小説風というのか、映画を観ているような感覚(まりも氏のコメントからの抜粋)
・<僕>の目線を通じて、彼女の言葉が綴られるという、僕と、彼女の、2つの目線が対比される構成で、2つの視点が共存する作品であるがゆえに、立体感が増している印象を受けます。(花緒氏のコメントからの抜粋)
・彼女と白百合を対象化している僕視点(エイクピア氏のコメントからの抜粋)
・花の骨という詩的な言葉がでてきますが、むりやり広げようとする感じがなくて、良かったです。(奇遇氏のコメントからの抜粋)
・生きることは、彼女にとって痛いことで、すでに生まれ変わった先を見つめているようですが、こんな風に誰かが、彼女の痛みを、そのまま痛んでいた時間が存在したのだと、なんとかして伝えたくなります。しかし読者の私にできるのも、やはりただ痛がり読むことだけでしょう。
私は、人間の他者に対する本当の優しさや、誰かの救いとなるような慈しみは、決して見えたり聞こえたりできるものには変換されないと信じているのですが、人生で時々、こんな風に人の心に寄り添い、寄り添われる時間が、誰も気づかぬうちに成立していればいいなと願っています。とても良いものを読ませていただきました。(緑川七十七氏のコメントからの抜粋)
・自らが抱いた疑問は自らにとって重要な意味をもっています。そういう点で冒頭の一行が非常に効果的です。(なかたつ氏のコメントからの抜粋)
・この主人公は、多分死ぬ事が約束されている未来があります。それは花と同じです。綺麗な花だからこそ、一番美しい時に死に、人間であるからこそ、全てを奪われた上で死にます。種を残す事は二人には出来なかったので、かわりに花びらを飛ばします。骨を茎に重ねる事でハイブリッドする。(百均氏のコメントから抜粋)
Ⅱ.『花の骨』は現代詩か
『花の骨』は優れた恋愛映画のクライマックスを切り取った脚本のような、あるいは、優れた恋愛小説の終焉シーンのような作品であることは、上記の各コメントを読んでもらえばお解りいただけることだろう。前後の場面・背景が省かれているとしても、読者を困惑させないだけの構造があり、フレーズに無駄がない。それは作者が持つ「必然へのこだわりの作業」が成立させた「技」ではないかと私は観る。内容について、一節挙げておきたい。
なぜ、花には骨がないのでしょう
多くの読者が好評を寄せる冒頭部分である。メタ的なテーマをまず最初に置くという、平易でありながら、文体としてはイージーに読まれがちな微妙なバランスを必要とするテクニックである。他にも優れたテクニカルな箇所が散見される。しかし、それらは高度なレトリックでもなく、難解な言葉でもなく、読解が難しい比喩でもない。もしかしたら、現代詩というジャンルからみれば、平易な作品だと評されるのかもしれない。
そこであえて問う。
『花の骨』は優れた現代詩なのか。
詩は偶然を含有する必然のなかにある。言い換えるならば、言葉に出来ない奇跡を、誰もが経験する日常の中へ転換する技術を詩というのだ。詩人とは、他者に視えないものが自身には視える人のことであり、視えたものを視えない人に観させる人のことを詩人と呼ぶ。それが超人的な能力ではなくて極めれば可能なテクニカルなものであることを『花の骨』は証明している。それが「必然へのこだわりの作業」。
人が言葉に実感を持つ時、あるいは言葉が実存として機能する時、それは、言葉について「他者が自分と同じ認識・気持ちを持っている」と確信する瞬間ではなかろうか。それを私は「必然」と呼ぶ。共感ではなく。人と人が理解し合えている、解り合えているというのは、自身の主観であり幻想である。その自己認識の域を出ない共感のことを私は「偶然」と呼ぶ。共感よりももっと先にある共鳴音、必然。
より多くの人に自身が書いた詩を共感して欲しいと願うことは、発表する行為が、書く行為に伴う限りにおいては、自然な発露である。ベタな言い方になるが、その共感を意識する作者の洗練する作業こそが読者へ、「必然」となった言葉を降らせるのだ。その必然は読者のレスポンスに含有される「事後」のことではあるけれどもしかし、作者が書いている瞬間にも存在していたはず。作者が書いているその時に。それは作者の意図からは外れる「偶然」ごとかもしれない。
もう少し踏み込んだ言い方をすれば作者は「平易な言葉・言い回し以外は使わない」と、枷を嵌めているようにも思える。失敗すればイージーな作風となるだろう、際どく微細な推敲の後が少なからず見受けられる。少なくとも私には、最近の作者の投稿作品のうち、『花の骨』以外の作品は優れてはいるけれども、突出した作品と見受けられたものは無かった。それは、タッチの差ではあるが、『花の骨』以外の作品は、平易な作品の域を出ていない。読者が望まずとも、その描かれる場を必然として浮かび上がらせてしまうような執拗なブラッシュアップは感じられなかった。
その作業は過酷な労苦ではあるが、天才こそが良作を書けることの逆、所謂、才能、知識がなければ良い詩は書けないとする論への反論として示したい作品としても私は賞する。詩を書こうとする者の誰もが、困難な作業を厭わないとすれば、良質な詩を書くことが可能なことを証明している。それこそがまさに、万人受けする詩作品ではないか。読んだ者が感動するあまり「自分には詩を書くことは出来ない」と、詩書きをやめたくなるほどの技が作品に宿り、それと同時に「こんな詩を自分も書いてみたい」と万人に思わせるもの。
醸し出す物語性だけでなく、万人受けする現代詩。その観点からも私は『花の骨』を大賞とする。
また、以前から述べてきた選評基準、「人生が書かれている作品か」について。本作が、この基準を満たしていることも以下の通り記したい。
私は作品に「作者が経験した事実」を求めているわけではない。作品から滲む生死観・思想から、作者の人物像を読者が求めたくなる詩。言い方を替えれば、それはオリジナリティとも言える。多くの読者が『花の骨』に「こんな詩を書く作者は一体どのような人なんだろうか?」と求めたとすれば、それは「オリジナリティ」を読者が感得したことに他ならないと思う。独りよがりからオリジナルへ向かうルートが直道としてあるのかもしれないが、多くの共感を得ようとしてたどり着く最果ての地には、客観視に曝され続け最期に残ってしまう、削り取られない自己の本質なるもの、つまりオリジナルが終着点にきっとあるはずだ。
Ⅲ.自分のための詩は正しい
万人受けする詩が賞賛されるべき基準とする一方で、孤高を貫く詩を私は真っ当に評したい考えがある。それらの詩作品を私は、真っ当に落選させたい。偏頗な意見かもしれないが、共感等を求めてそうではない佇まいの詩作品が、あらゆる場所で入選され称賛されるのをみるにつけ思うことがある。そこにもし優れた詩情があるとすれば、安易に形として表せないことである。その形にならないものへ、無理矢理に枠を嵌めている違和感。あるいは、自由でありたい詩作品を鎖で繋ぎ止めんとするかのような。反権威でありながら権威に寄与するような。誰からの共感も必要とせず孤高を貫ぬかんとする詩作品を真っ当に賞するとは、誰にもその存在を知らせることなく自分だけの宝とすることではないだろうか。
話が逸れてしまうが、幾人かの投稿者が選評拒否宣言を出されている。個人的に私は、その宣言を好意的に受け止めている。
1月投稿から選ぶ推薦作品について。本当は隠しておきたい気持ちで推薦する作品を一つ挙げさせていただく。誰のためでもなく、共有共感を目的とせずに書かれた作品。
作者本人の返レスを紹介したい。
普段の私は直感至上主義でして
それには理由は様々あるんですが略します。
意味なんての普段は
後から幾らでも付くとも思ってます。ただ、今回はタイトルの通り
詩のお遍路をさせて頂きました。
直感で書かないで突っ走らず
一つ一つの寺をしっかり歩いて
参拝する様に書いてみました。お寺の言い伝えや名前
等にも向き合い
私はある意味、放棄していた
意味を持ち伝える
時間を書けて書く
その行為に向き合いました。普段しない事なので、本当にお遍路の格好して歩いてるようでした。
1つ、3~4行になっていますが
私にはそこに意味を込めるのがやっとで
書き切るまでの道程は苦行で
何度も諦めそうになりました。今回の詩を通して
詩とは何ぞや?
書くとは何ぞや?
意味とは、読むとは?
自分に問い掛けながら
書いて
出来上がった後に読みました。立派な答えは出ませんでしたが
苦しくたって私は詩を書いていたい
詩を書くのは改めて達成感の連続なんだと
幾つか得る事が出来ました。殆ど自分の修行記録のような詩ではありますが
その中で、良さを見付けて頂きありがとうございます。
お気付きだと思うが、私が以前より示す「より多くの人へ読んで欲しいと願いたくなる」という基準からは逸脱している。いや、真実のところでは逸脱していないのだけれど。
Ⅳ.具体的な作品例により基準を示す
今回の記事はまだ続く。既に選評記事をこちらのブログに2回上げた。正直に白状すると、未だに自分の選評基準を明確に示しきった気がしないのである。何かモヤモヤする気持ちが晴れないのだ。そこで、今回、B-REVIEW掲示板への過去の投稿作品から、「この作品が今月投稿されていたら大賞だった、優良だった」という具体的な投稿作品を挙げて基準を示したいと思う。その作品についての評は書かない。
選評理由を察してくだされば幸いである。
・鈴木清順が死んだあとに
Ⅴ.展示したい、売りたい作品を選ぶこと
作品ありき(多選の方向性)でなく、少数の作品を選ぶことへの私の拘り。その理由の一つとして、「自分が展示したい作品を選ぶ」というのがある。仮想の話ではあるけれど、「金」を介在させ「展示した作品を売る」としたら。
この意味合いがわかるだろうか?
昔は、本・作品の質の担保は出版社・販売する企業が担っていたのである。いや、今も担っているのだろう。しかし、詩作品については特異な傾向として、「買う・読む作品の質に担保がない」ということがある。否、その役割は権威ある各賞が担っているのだ。そこで、詩壇をイノベーションすることこそが存在意義だと当サイトを定義すれば、選者に作品が良質である担保責任を課すことがあるべき姿ではなかろうか。更に踏み込んで言及すれば、権威ある賞ではなく、「ど素人の感性がイチオシする作品」が多くの共感を得、売れたとしたら、それこそが本望である。そう覚悟するど素人の私には、優良・推薦として選ぶべき作品数は、僅かである。サイト運営を代表する立場の保身を考慮すれば、多くの作品を忖度して発表すればよいのかもしれないが、それこそ参加者が一番望まないこと。 選評の公平さについて現時点でベターとする方法は「自分本位で選評する」と、宣言することだと思う。それは選者が提示する審美眼への批判が公の場で伴うのだから、作者も選者も、読者に対してもフェアである。
Ⅵ.多彩な選者が少数作品を選ぶ
更にもう一つ、多選方針を取りたくない理由がある。多様な現代詩の定義を用いれば投稿作品すべてに良さが見出されることは自明である。例えば、無題で白紙の作品が投稿されたとする(ビーレビでは投稿規定NG)。そんな作品であっても多様な現代詩の定義は意味付けを可能とする。現代詩とは、全ての言葉、記号、あるいは白紙に対しても意味付けと価値を与えることが可能なジャンルなのだ。つまり、なんでも有り、なんでも読解を可能とする選者であればすべての作品が優良・大賞と読めてしまう。何が言いたいのか。私は「選者が作品を選ぶセンス」について、多いに話題にするべきでは?と主張したい。これこそが、詩界隈を更に面白い場にするトピックなのではないかとも思う。多選となると、その選者が持つセンスが見え難い。そこに多選を用いない理由が一つある。
一方で、注目される作品は多彩であるべきと考える。一人の選者が多くを選ぶのではなく、多彩な選者が登場し、意外な作品が次々と選評されることが理想ではないかと思う。選者がそれぞれ独自の感性を気軽に出せる場となって、当サイトが更に楽しく刺激的な土壌となることを切望する。
Ⅶ.「藝術としての詩」
私は来月も大賞に相応しい作品を楽しみに待つ。自らの知識量、詩作の力量は省みずに。
権威などクソだと共感する方。あなたが選ぶ感性を是非みたい。権威、箔付けでなく、ど素人の読者が自身の感性で選評をする。行先には新世界が広がることだろう。あなたが書いた偶然の詩を読んだ私が必然を以って等価交換する詩作品。私はこれを「藝術としての詩」と名付ける。