たとえ偽りに終わったとしても

趣味のこと書いてます。詩の投稿掲示板サイト代表のブログでしたが。

たとえ偽りに終わったとしても

寝台列車に乗車する前後からずっと500マイルを聴き続けていました。
眠れないままに到着した東京駅。
ビルディングを眺めながら私はまだ
ピーターポール&マリーの500マイルを聴き続けていました。
既に失われた故郷には、友人も恋人も、家族も誰もいなかった。
ブルースだけが必要な季節のことを、あなたも知っているでしょう。
孤独は特別なことではありません。
私には冬の訪れが突然すぎて、
寒い季節を迎えるには準備が不足していただけのこと。
十八になった、初冬の話です。
朝の凍えは耐え難く自分を自分で騙すほかに
一日を始める術を知らなかった。
東京に出れば変わると、
酷い勘違いをしていたのかもしれません。
裕福な環境で育った私はプライドだけが高く、
「働き」は耐えられるものではありませんでした。
藝術を好んでいた私の同級生たちは皆、
美大へと通うようになっていました。
被害妄想が一層私を酷く歪ませました。
「自分に正直に」「自分だけの表現を」
そのような面持ちで朝を迎えるであろう、
彼、彼女たちが羨ましかった。
私はというと寝床を立つところから、
ただひたすらに自分を偽り続ける。
昼間を経て夜になると他人への偽りが更に増す。
真夜中に頭をもたげる紛らわしき善悪の判断が
それを加速させるのです。憎悪、羨み。
三十回の冬が過ぎると、
憎悪も何もかもが思い出の品となって蔵われ、
完全なる他者だけの春が訪れます。私だけの世界です。
その世界の訪れを夢のケーブルと称する人がいました。
夢と呼びたくなるほどにその人は孤独であったのでしょう。
夢のケーブルは完全なる他者を実存へと向かわせます。
まがいものなのに。
完全なる他者は正しさを説きます。
紛らわしさの罪について宗教家が私に語ったことがありました。
偽札はその精度が高ければ高いほど罪が重いと。
彼はとても真剣な表情で話しを聞かせてくれました。
表層だけの共有、一体感。うんざりな気持ち。
宗教とSNS紙一重
私は2008年にmixiを放置しました。
2016年にFacebookも放置。
Twitterは2010年に登録しましたが2015年まで放置。
2016年からは五つのTwitterアカウントを使用し
時間と情報のシェアに紛れました。
私は止めることにします。
タバコを止めることは出来ませんが
Twitterを止めることは私にとって無理なことではありません。
なぜならば私の残り時間はあと僅かだからです。
タバコを吸う時間は多くても日に1時間。
Twitterに使っているのは日にどれぐらいでしょう。
その時間があれば100キロ離れた場所まで
ロードバイクで行くことができます。
きれいに陽が沈む景色を眺めてみたいなって思うのです。
そして死に方を考えるのです。
もちろん夕陽がなくても死に方を考えることは可能です。
死に方を考えなくても死ぬ時が来れば人は死ぬのでしょう。
人の死。
吉本隆明が示された文学者の死に方があります。
文学者はその死に方によって文学が蘇るという話。
これを私は実践してみようと思うのです。
それは現実の死ではなく、まがいものの世界において。
最後まで私の理は破綻していますか。それでもいい。
合理による共有を求めることに疲れました。
完全なる他者、完全なる私の世界と並行する非合理な世界へ
私は戻ります。誤解は誤解のままに。
不完全な表情に還った私がいつか再びあなたと語り合えたら、
その物語を確実に記してみたい。
初めて私が言葉を学ぶように。
この世には絶対があります。
あなたも絶対を感じたことがあるでしょう。
私は肉親を亡くしたときに絶対を感じました。
そうしたら生きていこうと思えました。
だからあなたと約束をする。絶対にまた会いたい。
たとえそれが狂気であって、たとえそれが、偽りに終わったとしても。