たとえ偽りに終わったとしても

趣味のこと書いてます。詩の投稿掲示板サイト代表のブログでしたが。

詩を書く言い訳をするには覚悟がいる~田中修子氏「うみのほね」を読んで

人の死は常に外界の傍にあって、その主体無き滲みのようにある死の感触は確かめることが難しい。確かめる手段が一つあるとすれば、生きる覚悟。


私が田中修子氏の詩に興味をもったのは2019年の3月だったと記憶している。彼女の存在を以前から知っていた。Bの方でいくつかの作品を投稿されていた。けれど、投稿作品を読んでも私の趣向に合わなかったからか、既読スルーするに終わっていた。それでも、現代詩フォーラムに彼女が投稿された作品「人でなし」を覗き読んだのは、タイトルの「人でなし」が触覚を震わせたから。気になって読んでしまった「人でなし」。彼女も私も持ってしまった他者との関係性において欠落しているもの、欠落せざるえなかったこと。そのようなことへの共鳴があった。

彼女の処女作本『うみのほね』には未収である作品をこの記事の始まりに出すことは適当ではないのかもしれないが、私が書く記事は文章構成もなにもかもが稚拙であることを御容赦いただき、もう少し付き合ってもらおうかと思う。

作品「人でなし」は自死した友人の話。自死をした友人を明かす行為とは一体どういう心情によるものか。私にはわかる。人の死への畏敬の念がどうだとかという物言いを以前に私は自分の作品への批判で受けたことがある。それが示す倫理観のようなものは理解する。だけれども詩として(結果として詩でなくなってしまっていても)この世に現さなければならない私だけの必然がある。相してある私にとっての自死した者たち。もう一つ現代詩フォーラムに彼女が投稿された作品名を挙げたい。「きみはなにに殺されたんだろう」。そこにある自死は天才を願って二十歳で死んだ人物。相してある私にとっての天才の早逝という自死。才能が無ければ早逝して天才の証とするのか、あるいは才能が人間を殺すのか。自殺についての思考は、未来と過去を現在において反復する。希死念慮は愛する者と憎悪する者を自らの生において反復する。その際限のない反復はどこかのタイミングで落とし前をつけなければならない。その落とし前の手段は誰か宛てではないけれど、誰か宛ての言葉を綴り出すしかないということ。批判を覚悟して私は、私だけが知っている私だけの友人のことを作品として文学極道に投稿した。その行為が田中修子氏と同じ様だと言いたいのではない。生死を反復する果てに詩はあって欲しいという私の願いであり、詩本『うみのほね』からも、その反復の果てにある残酷なリアルを受け入れました、という「憎悪の承認証」を感得した。私の推察の域を出ないことではあるが『うみのほね』に自死した友人はいない。作品の中に友人はいないけれど、残酷なリアルを受け入れた「彼女の友人」が宿っている。言うなればそれは、白島真氏の言葉を借りていえば「叫び」と「祈り」であり、付記するならば憎悪を内包したままに叫び祈り生きる覚悟がこの本にはある。

『うみのほね』に収められた作品「滲む記憶」を紹介したい。

ねぇ、お父さん

 この作品は冒頭この言葉で始まり、いくつかの、お父さんへの問いとお父さんの答えが交互に続く。ここでは詳細は引用しないこととする。是非手に取られ読んでもらえるといい。作品への言及をする前に申し上げておきたいことは「滲む記憶」だけに限らず、『うみのほね』は、一般論や読者自身の価値観、家族観、生死観、善悪観のフレームを用いて読むものではないということ。そうは言っても読みの手法やら、感じること、人それぞれ自由ではあるが、少なくとも私は初読後、作品の表層を読むのではなくて、「詩心」を発見したいと思った。では、詩心とは一体なんぞや。ここでの定義は「詩を書く言い訳」としたい。理由ではなくて言い訳である。同義ではあるのかもしれないが、『うみのほね』から私が探し当てたいものは「言い訳」という言葉が持つニュアンスの方が近い。話を作品に戻す。

分析しても 分析しても 涙が出るだけ 滲む涙で 詩を書こう

 

 

 引用した一節へ至るまでには語り手による自問自答、あるいは過去に経験したであろう事柄が綴られている。一体、「分析」とはどういうことを言うのか。そして何故、詩を書くことを選ぶのか。これを解するに、細かなことをここでは書かない。結論だけを断定していう。(いつも三浦はこのような書き方ではあるけれども)
分析とは合理で考えること、詩を書くとは非合理であること。

合理であれば多くの共感が得られるであろうこと。合理の先には「一般化」という誰もが経験する事象、納得理解することが可能な出口がある。しかし、合理とならない経験はどうすればよいのか。非合理なことを非合理なままにのみ込もおうとする時、破綻する。人間は破綻するかあるいは既に破綻しているのだ。言うなれば、詩を書く行為のこと。以前からの私の持論であるけれども、詩は断絶を表すことのできる唯一の方法であり、共感とは真逆のものであるということ。本作の結末の言葉を引用したい。

それはわたしの
わたしに連なる生の
すべての否定
愛は

死だ

 愛は死だとすることによってしか理解出来ないこと、つまり断絶を知るということではなかろうか。それを悲壮なネガティブなこととしては捉えてはならない。断絶は断絶のままに、生きる覚悟があればいいのだ。憎悪は憎悪のままに生きる覚悟があればいい。

 



最後に多くの人が詩本を手にされることを願い、過去に白島真氏の『死水晶』について私が書いた感想を載せておきたいと思う。詩は用意された場所、約束された時間で巡り会うものではない。運命としかいいようのない出会い。

 

『有名な小説本を買うことと無名な詩集本を買うこと。これはその本の価値を決める行為としては未確定であり両方にある差は出会う確率であり良き出会いは人生において稀なもので、良き詩集本に出会うことは運命に近い。良き詩とは、良き本の価値とは、何れかに依って定められるのか。それは言葉を贈られた側の運命、読者自身が持てる感性をも含めた運命が価値を決めている。白島真さんの「死水晶」とは、観察者が詩の表現を用いた、不可思議な運命についてのレポートだと思う。』

 

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