たとえ偽りに終わったとしても

趣味のこと書いてます。詩の投稿掲示板サイト代表のブログでしたが。

救済を求めてわらう人々―武田地球氏「わたしの龍」を読んで

カンボジアの果物係りは最高だった。こんなに素晴らしい作品を書いちゃってどうしちゃったんだろう地球さんはと僕はびっくりしたし、詩人になっちゃったなあ地球さんはと、地球さんが遠くへ離れていってしまったような気持ちになった。あれから2年経ったけれど地球さん、僕はずっと文章が下手なまんま、ここに居る。

武田地球さんの詩の魅力ってなんだろうかと考え始めたのはたしか「大阪のミャンマー」を読んでからだった。Bの大賞を受賞した「あなたを待つよ、シャンゼリゼ」はとても評判がいい作品だったんだけれど僕にはあんまりピンとこなかった。彼女がtwitterで発信している魅力的な言葉遣いがシャンゼリゼにはあるけれども、彼女の息遣いではないよなあ、と。シャンゼリゼでは彼女ははっきりと絶望を口にしている。過去も現在も未来も「わたしの精神」もはっきりと口にしている。彼女ははっきりと言葉を口にする人ではない。そうではないんだ。知ったようなことを云うけれど。

「大阪のミャンマー」のことを地球さんははっきりと言葉にしない。出来ないんだ。だから「あれで」なんていう。

 

大阪のミャンマーはやたらに生真面目な青年で、直立不動がよくにあう。まいにち夜の公園で詩を朗読しているから、はたからみるとちょっとあれで、しかも時々に勝手に感極まって泣いているという。 
「大阪のミャンマー」より引用

 彼女らしいなと思った。「大阪のミャンマー」は彼女らしい。大阪のミャンマーみたいな人を彼女は見逃さない。カンボジアの果物係りだってきっとそう。

ピカピカの服を着ていたカンボジアの果物係りの少年は
20年もおなじ係りをしているうちに
果物のことが何にもわからなくなってしまった

 「カンボジアの果物係り」より引用

 

 何にもわからなくなってしまった人を彼女は見逃さない。とても陳腐な言い方かもしれないけれど、そういう人たちに笑って欲しいと願っている。
絶対にそうだ。でも、「わたしの龍」は逆転している。武田地球さんが大阪のミャンマーであり、武田地球さんがカンボジアの果物係りとして作品に現れてきた。現実の彼女。武田地球さん。


現実がどこからかどこまでかわからなくて、わたしはずっと浮ついている。

 

 

ここまで書いて今更いうことでもないけれど、これを批評文と呼ばないでいい。最初は批評文を書くつもりだったけど、批評文じゃないことに今気が付いた。でも批評文として続ける。

詩が自分語りであればあるほどにダサいし、頭がいい人たちが批判を浴びせる。そんなのは詩ではないと。つまらない奴らが世の中にはいる。賢くて気取ったやつらが弱い者いじめをする。握り拳で黙ってしまう人をバカにする。
でもね、そんな時に詩人になる。なると思う。僕は知っている。
「わたしの龍」とは詩人のことである。

「あんた、しっかりせえよ。」

詩を書き終えたらわらおう。

 

 

詩を書く言い訳をするには覚悟がいる~田中修子氏「うみのほね」を読んで

人の死は常に外界の傍にあって、その主体無き滲みのようにある死の感触は確かめることが難しい。確かめる手段が一つあるとすれば、生きる覚悟。


私が田中修子氏の詩に興味をもったのは2019年の3月だったと記憶している。彼女の存在を以前から知っていた。Bの方でいくつかの作品を投稿されていた。けれど、投稿作品を読んでも私の趣向に合わなかったからか、既読スルーするに終わっていた。それでも、現代詩フォーラムに彼女が投稿された作品「人でなし」を覗き読んだのは、タイトルの「人でなし」が触覚を震わせたから。気になって読んでしまった「人でなし」。彼女も私も持ってしまった他者との関係性において欠落しているもの、欠落せざるえなかったこと。そのようなことへの共鳴があった。

彼女の処女作本『うみのほね』には未収である作品をこの記事の始まりに出すことは適当ではないのかもしれないが、私が書く記事は文章構成もなにもかもが稚拙であることを御容赦いただき、もう少し付き合ってもらおうかと思う。

作品「人でなし」は自死した友人の話。自死をした友人を明かす行為とは一体どういう心情によるものか。私にはわかる。人の死への畏敬の念がどうだとかという物言いを以前に私は自分の作品への批判で受けたことがある。それが示す倫理観のようなものは理解する。だけれども詩として(結果として詩でなくなってしまっていても)この世に現さなければならない私だけの必然がある。相してある私にとっての自死した者たち。もう一つ現代詩フォーラムに彼女が投稿された作品名を挙げたい。「きみはなにに殺されたんだろう」。そこにある自死は天才を願って二十歳で死んだ人物。相してある私にとっての天才の早逝という自死。才能が無ければ早逝して天才の証とするのか、あるいは才能が人間を殺すのか。自殺についての思考は、未来と過去を現在において反復する。希死念慮は愛する者と憎悪する者を自らの生において反復する。その際限のない反復はどこかのタイミングで落とし前をつけなければならない。その落とし前の手段は誰か宛てではないけれど、誰か宛ての言葉を綴り出すしかないということ。批判を覚悟して私は、私だけが知っている私だけの友人のことを作品として文学極道に投稿した。その行為が田中修子氏と同じ様だと言いたいのではない。生死を反復する果てに詩はあって欲しいという私の願いであり、詩本『うみのほね』からも、その反復の果てにある残酷なリアルを受け入れました、という「憎悪の承認証」を感得した。私の推察の域を出ないことではあるが『うみのほね』に自死した友人はいない。作品の中に友人はいないけれど、残酷なリアルを受け入れた「彼女の友人」が宿っている。言うなればそれは、白島真氏の言葉を借りていえば「叫び」と「祈り」であり、付記するならば憎悪を内包したままに叫び祈り生きる覚悟がこの本にはある。

『うみのほね』に収められた作品「滲む記憶」を紹介したい。

ねぇ、お父さん

 この作品は冒頭この言葉で始まり、いくつかの、お父さんへの問いとお父さんの答えが交互に続く。ここでは詳細は引用しないこととする。是非手に取られ読んでもらえるといい。作品への言及をする前に申し上げておきたいことは「滲む記憶」だけに限らず、『うみのほね』は、一般論や読者自身の価値観、家族観、生死観、善悪観のフレームを用いて読むものではないということ。そうは言っても読みの手法やら、感じること、人それぞれ自由ではあるが、少なくとも私は初読後、作品の表層を読むのではなくて、「詩心」を発見したいと思った。では、詩心とは一体なんぞや。ここでの定義は「詩を書く言い訳」としたい。理由ではなくて言い訳である。同義ではあるのかもしれないが、『うみのほね』から私が探し当てたいものは「言い訳」という言葉が持つニュアンスの方が近い。話を作品に戻す。

分析しても 分析しても 涙が出るだけ 滲む涙で 詩を書こう

 

 

 引用した一節へ至るまでには語り手による自問自答、あるいは過去に経験したであろう事柄が綴られている。一体、「分析」とはどういうことを言うのか。そして何故、詩を書くことを選ぶのか。これを解するに、細かなことをここでは書かない。結論だけを断定していう。(いつも三浦はこのような書き方ではあるけれども)
分析とは合理で考えること、詩を書くとは非合理であること。

合理であれば多くの共感が得られるであろうこと。合理の先には「一般化」という誰もが経験する事象、納得理解することが可能な出口がある。しかし、合理とならない経験はどうすればよいのか。非合理なことを非合理なままにのみ込もおうとする時、破綻する。人間は破綻するかあるいは既に破綻しているのだ。言うなれば、詩を書く行為のこと。以前からの私の持論であるけれども、詩は断絶を表すことのできる唯一の方法であり、共感とは真逆のものであるということ。本作の結末の言葉を引用したい。

それはわたしの
わたしに連なる生の
すべての否定
愛は

死だ

 愛は死だとすることによってしか理解出来ないこと、つまり断絶を知るということではなかろうか。それを悲壮なネガティブなこととしては捉えてはならない。断絶は断絶のままに、生きる覚悟があればいいのだ。憎悪は憎悪のままに生きる覚悟があればいい。

 



最後に多くの人が詩本を手にされることを願い、過去に白島真氏の『死水晶』について私が書いた感想を載せておきたいと思う。詩は用意された場所、約束された時間で巡り会うものではない。運命としかいいようのない出会い。

 

『有名な小説本を買うことと無名な詩集本を買うこと。これはその本の価値を決める行為としては未確定であり両方にある差は出会う確率であり良き出会いは人生において稀なもので、良き詩集本に出会うことは運命に近い。良き詩とは、良き本の価値とは、何れかに依って定められるのか。それは言葉を贈られた側の運命、読者自身が持てる感性をも含めた運命が価値を決めている。白島真さんの「死水晶」とは、観察者が詩の表現を用いた、不可思議な運命についてのレポートだと思う。』

 

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たとえ偽りに終わったとしても

寝台列車に乗車する前後からずっと500マイルを聴き続けていました。
眠れないままに到着した東京駅。
ビルディングを眺めながら私はまだ
ピーターポール&マリーの500マイルを聴き続けていました。
既に失われた故郷には、友人も恋人も、家族も誰もいなかった。
ブルースだけが必要な季節のことを、あなたも知っているでしょう。
孤独は特別なことではありません。
私には冬の訪れが突然すぎて、
寒い季節を迎えるには準備が不足していただけのこと。
十八になった、初冬の話です。
朝の凍えは耐え難く自分を自分で騙すほかに
一日を始める術を知らなかった。
東京に出れば変わると、
酷い勘違いをしていたのかもしれません。
裕福な環境で育った私はプライドだけが高く、
「働き」は耐えられるものではありませんでした。
藝術を好んでいた私の同級生たちは皆、
美大へと通うようになっていました。
被害妄想が一層私を酷く歪ませました。
「自分に正直に」「自分だけの表現を」
そのような面持ちで朝を迎えるであろう、
彼、彼女たちが羨ましかった。
私はというと寝床を立つところから、
ただひたすらに自分を偽り続ける。
昼間を経て夜になると他人への偽りが更に増す。
真夜中に頭をもたげる紛らわしき善悪の判断が
それを加速させるのです。憎悪、羨み。
三十回の冬が過ぎると、
憎悪も何もかもが思い出の品となって蔵われ、
完全なる他者だけの春が訪れます。私だけの世界です。
その世界の訪れを夢のケーブルと称する人がいました。
夢と呼びたくなるほどにその人は孤独であったのでしょう。
夢のケーブルは完全なる他者を実存へと向かわせます。
まがいものなのに。
完全なる他者は正しさを説きます。
紛らわしさの罪について宗教家が私に語ったことがありました。
偽札はその精度が高ければ高いほど罪が重いと。
彼はとても真剣な表情で話しを聞かせてくれました。
表層だけの共有、一体感。うんざりな気持ち。
宗教とSNS紙一重
私は2008年にmixiを放置しました。
2016年にFacebookも放置。
Twitterは2010年に登録しましたが2015年まで放置。
2016年からは五つのTwitterアカウントを使用し
時間と情報のシェアに紛れました。
私は止めることにします。
タバコを止めることは出来ませんが
Twitterを止めることは私にとって無理なことではありません。
なぜならば私の残り時間はあと僅かだからです。
タバコを吸う時間は多くても日に1時間。
Twitterに使っているのは日にどれぐらいでしょう。
その時間があれば100キロ離れた場所まで
ロードバイクで行くことができます。
きれいに陽が沈む景色を眺めてみたいなって思うのです。
そして死に方を考えるのです。
もちろん夕陽がなくても死に方を考えることは可能です。
死に方を考えなくても死ぬ時が来れば人は死ぬのでしょう。
人の死。
吉本隆明が示された文学者の死に方があります。
文学者はその死に方によって文学が蘇るという話。
これを私は実践してみようと思うのです。
それは現実の死ではなく、まがいものの世界において。
最後まで私の理は破綻していますか。それでもいい。
合理による共有を求めることに疲れました。
完全なる他者、完全なる私の世界と並行する非合理な世界へ
私は戻ります。誤解は誤解のままに。
不完全な表情に還った私がいつか再びあなたと語り合えたら、
その物語を確実に記してみたい。
初めて私が言葉を学ぶように。
この世には絶対があります。
あなたも絶対を感じたことがあるでしょう。
私は肉親を亡くしたときに絶対を感じました。
そうしたら生きていこうと思えました。
だからあなたと約束をする。絶対にまた会いたい。
たとえそれが狂気であって、たとえそれが、偽りに終わったとしても。

 

動画でもつくれば批評より紹介が詩に必要になる

批評を言葉に発してやる、批評を放送でやる、生放送で批評をやることは不向きなものだとさっき気が付きました。それは思うに、批評というものは理に適ってないとだめだからなのでしょうね。生放送だと、時には理から外れますもんね。先日ツィートしたけど、僕は作品の紹介でいいです。批評など永遠に縁遠いものでいいです。
昔々このブログのように、語り口調で詩に言及すること自体が舐めた行為だと指摘を受けたことがあったが、仰る通りです。
で、動画の話。ラジオ番組のインフォメーションは動画をメインに据えたい思いがあってafterefectsを使い出した。確か、afterefectsを入手したのは10年ぐらい前だったと記憶している。入手当初、パラメーターの多さに閉口し、二度と開くことのないアプリケーションとしてずっと放置していた。今回も開いてみたはいいが、印象に変化はなく他のソフトを探した。animeefectsというソフトを発見。これがよかった。簡単に操作をマスターすることが出来た。思いもよらず、animeefectsで覚えた動画(アニメーション)作成の基本マニュアルがafterefectsへの敷居を一挙に下げてくれた。これはとても貴重な体験だった(いや私だけかもしれないが)。そこで、afterefectsの初歩的なつまずきやら、ビギナーが往々にして謎だと疑問に持つであろうことを近いうちに記事にしておこうと思っている。
ところで動画製作はラジオ番組のインフォメーションだけが目的ではなくて。詩の動画を本格的に作っていきたい気持ちがある。詩を動画にする。そこには朗読は無いかもしれない。いや、朗読も収めるかもしれない。いずれにせよ、新世界へ詩を持っていきたいと考えている。ITってたしかインフォメーションテクノロジーの略だった気がする。批評される詩よりも紹介される詩に近いことが出来たら僕はほくそ笑むことだろう。
Youtubeを詩で席巻してみたいものだ。

— みうらA面 (@breviewwired) 2018年9月27日

ゼロ位置と誤差について

書きたいと当初思っていた作品にはならなかったので、別の、過去不完全に終わっていた作品と合体させたものに作り変え、ビーレビに久しぶりに投稿した。

代替えのきかない己にしか書けない詩文。僕がそれを書くことに成功したのは「赤い川」だけ。事実を書くのとは違う。事実を書いた作品は「赤い川」の他にある。今回投稿した作品だってノンフィクションと云えばノンフィクションだ。

オリジナルについてよく考える。所属している仕事のカテゴリー柄、「オリジン・原点」という言葉をメカニカル上の意味において頻繁に使う。原点が失われるとメカは誤差があるままに動いてしまい想定していた結果から大きく外れる。0位置がちゃんと取れている作品を書きたい。

他人の作品を読む。良いと思えない作品に出くわしたら、何も言わずに立ち去ればいいのに、私は辛辣なことをコメント欄に書く。辛辣さが向かう方向は作者だろう。私は他者との関係を壊したいのかもしれない。誤差のままに生きている私から傑作が生まれるわけがない。傑作を書きたいのであれば、傑作が書けない自分と世界の関係を壊す他に詩書きを根源的に向上させる方法を知らない。他人が書く作品が劣悪であるはずがない。劣悪なのは自分が観る世界であり、辛辣な言葉で表さなければ、自分の醜い世界を観みて自己嫌悪の底に打ちのめされて沈むことは永久に訪れない。他者とは、どこまでいっても私の中にいる他者だ。私が創り出している他者であり、私がいる世界とは私のなかにいる他者との関係であり私には誤差がそこにある。時々そう考えながら詩文を書いたり他人の作品を読み、コメントを書いたりしている。

二千年と十八の年

始まりがあって終わりがあるとすればそれが
星々でそれから、それから十八の君がいる。
月と太陽の始まりと終わりのあかりを
気がつかせてはくれないまま、そのままに
十二の弦を張り替え奏でる。
奏でる他に生があることを知れない。
二千年が始まる一日目に授かった女の子を
あかつきのね、暁音ちゃんと呼び、
歓びに泣いていたあなたは母親になった。
「母さんからは憎まれていたよ」
と死ぬ前に打ち明けた姉貴。
あなたが育まれた暁音は十八となる。
愚かな弟は守られていたことを知る。

赤い川

完全なるものが鬱陶しい
語られるほどに
無能な川底を回る魚のようで

湧き水を汲みに行った先
おねえちゃんがいう
「完全なるものは三千世界といってね」

「完全なるものは死なないんだね」
と意地悪に返した
髪が抜けて鬘をしたおねえちゃんは
顔すら動かせなかった
うわごとをしゃべるようになった
つたうきみの世は
三千世界でしょう

会いたくない僕を
呼んでくれと
正気な時の頼みごとを
人伝にきくと面会に行く
死ぬのはこわくないよと
そう云われたら泣いた

もういちど湧き水を汲みにいこうかと
おねえちゃんを連れて出た
新興宗教の施設みたいで
寝心地が気になる宿
久しぶりにふたりで寝た
目が醒めたら
天井をみたままの姉が
死ぬのはこわくないよと
また云った

ひとりで部屋を出た
夜が明けだしの外の林道
見下ろせば
赤い川の水面
さきにいった父と母の
生死をおもったら
おねえちゃん、一緒に帰ろうって

つたうきみの世は
三千世界でしょう
おねえちゃん、けしうはあらず

 



くたばれビーレビュー

文字として書かれた言語は純度が高いと少女は云った。文字として書かれた言語は誤解を生みやすいとビジネスパーソンが云った。「文字言語を選び、闘ってきた詩にとって朗読は自殺行為だ」と詩人が教えてくれた。詩は説明書きではない。詩は物語でもない。詩を人々は共有するものではない。詩は断絶を表すことが出来る唯一の表現方法である。なぜならば、言葉として言い表すことが出来ないことを詩情というのだから。「現実を言葉で組み立てることは出来ないからいつも残念な気持ちになる」と詩人が教えてくれた。詩人は矛盾と闘っている。詩人の闘いは他人との共闘では無い。他人と解り合える詩など断じて無い。私とあなたは断絶であると教えてくれる詩があるだけだ。なのになぜ、見知らぬ者同士が詩を投稿し合うネット詩掲示板に私は居るのか。そこに現実以上の矛盾と原初の言葉があるからだ。矛盾の場所に誤解が生じる。表層のコミュニティーは嫌われ者たちを排除する。排除された者たちは勧善懲悪の欺瞞を告発し、その越境者たちは言葉に肉体を与える。それはとても淋しいことだけれど、越境者だけが持つ覚醒に私は鳥肌を立てていたい。共感はいらない。朗読会もいらない。リーディング大会も。パーティでもなく、セラピーでもなく、文字言語で闘ってきた詩だというのなら、孤独で残酷で、握りこぶしで黙って舞台を去るような、そんな不器用な人々が集う場所があればいいと思う。そうでなければ、合理的な人々が詩を死滅させるだろう。