たとえ偽りに終わったとしても

趣味のこと書いてます。詩の投稿掲示板サイト代表のブログでしたが。

絶望とはなんですか?

2016年の9月に書くことが上手くなりたいと、詩の投稿サイトというものへ足を踏み入れた。詩を書く趣味をもっていたわけでもなかったし、詩を読むことが好きなわけでもなかった。読んだことがあった詩など宮沢賢治中原中也とランボウの地獄の季節ぐらい。初めて覗いたその詩の投稿サイトでは自分の作品を投稿する前にまず、他人の投稿作品へのコメントが義務付けられていた。どうせなら一番上手くて一番人気がある作品を読んでコメントしようと考え、いくつかの詩本を出されていてamazonの詩カテゴリー売上ランク上位にいらっしゃる「本物」の詩人の作品へコメントをすることにした。

詩なんてものは長くても十行ぐらいで、それらしいことが書かれているもんだろうと舐めた気持ちがあった。ところが、「現代詩」を代表する詩人の作品は5000文字を遥かに超えたもので、「これ小説?」という異様なものに思えた。それでも、なにやら初物に触れてのことか興味深々に粘って最後まで読んだ。なんだろうか、まったく何を言いたいのか意味が解らないし、どういった理由でこんな長文を書いて「詩」と定義してるのか、作品を投稿すると金が入る仕組みでもあるのかとも疑った。でもそうではないようだった。

報われない労力

そんな言葉が頭に浮かんでしまい、そのまんまの疑問を投げかけようかと思った。皮肉に受け取られてもいいような。でも今にして思えば我ながら純度の高い質問だったと思う。

あなたにとって絶望とはなんですか?

そう私は質問した。
その詩をどう読解すればよいのか、いや、これは詩ではないでしょうと、詰問するべきだったのかもしれない。でも、そうじゃなくて、詩のことではなくて、詩人から教わりたいことは詩のことじゃないと、それだけは解った。詩のことを詩人に尋ねてはいけない、そのようなことを。

『思考は言葉で組み立てます。現実は言葉で組み立てられておりません。この違いは、埋めることができないでしょう。でも、なんとか言葉で、というのが人間の気持ちなのかもしれません。ぼくもしじゅう残念な気持ちを持ちながら言葉で詩句を組み立てています。しかし、言葉と言葉のあいだにある溝が、現実にはなかったものをも想起させることがあるので、現実にはなかったものが創造されることもあるという意味では、言語の可能性は無限と言ってもよいのではないかと思います。そしてそれが、おそらくは、ぼくに全行引用詩を書かせている一因になっているのではないかと思います。ウルフの『灯台へ』は名作です。お知り合いの方に尋ねてみてください。ご存じの方なら、おすすめになられると思いますよ。ぼくの引用部分は、まさに部分で、作品自体は、傑作でした。絶望は文学にではなく、しじゅう現実の生活で味わっています。詩や小説を読んだり書いたりすることは、現実の絶望からの避難かもしれません。文学には、ぼくは希望しか抱いておりません。さいしょに書いた残念な気持ちを持ちながらも、です。』
 【文学極道/2016年9月2日投稿作品:全行引用による自伝詩。 田中宏輔 のコメント欄より引用】

文学も、詩も、なにもかも無知な初心者へ、とても丁寧に応じられ、教えていただいたこの言葉は一生の宝物としている。
3年がたった今でも私は文章を書くのが下手くそなままだ。絶望もわかってない。救いとか、自己治癒なんて高尚な気持ちにもきっとならないだろう。でも、これからも書いていこうと思っている。なんとなくだけれども、その残念な気持ちというのが私にもあるような気がするから。