たとえ偽りに終わったとしても

趣味のこと書いてます。詩の投稿掲示板サイト代表のブログでしたが。

詩に愛着がないのに書かれた詩

言及してる人いないみたいだから書いておこうとおもう。

文学極道が終わる。2016年9月からの参加だから文学極道幻想兄弟になってないから残念だ。でももしかしたらそんな私にしかみえていないことがあるようにも思う。いや、ヴァカな私だけが気が付いてるとも思えないけど。
こないだZoom合評会で「好きな詩人はだれ?」という自己紹介コーナーがあったので「田中宏輔さん、いかいかさん、中田満帆さん、泥棒さん、コーリャさんとかかなあ」と答えた。もちろん、他の人らは谷川俊太郎さんやらなんやらでした。

ネット詩で知った詩人(詩人カテではない人もいるかも)。よくよく考えてみたら、あることに気が付いた。これは三浦の私見ですが、本当に本当に私見ですが、私が好きな彼、彼女らの作品からみえてくるものって「詩は好きではない、でも書いてしまう」ということ。「詩を好きな人が書く詩」と「詩は好きではないけど書いてしまう人」では違うんだよね。文学極道の功績の一面としてあるのは詩は好きではない、でも書いてしまう人たちを吸寄せたことなんじゃないかな。
どなたかが云っていらっしゃったけども詩が書ける時期って限定されているんだって。物わかりが悪い人のために付記しておくと「ポエジーが宿る詩を書ける時期」ね。
先に挙げた私が好きなネット詩でみつけた人達。本当に失礼なことを云ってしまって恐縮だけれども彼、彼女らがその書ける時期の最期の方で私は見つけたんだと思う。

「ああ、もう書けないなあ、もう書かなくていいのかなあ」なんて云いながら詩が嫌いなのに書いてしまう人が書けなくなる、お終いになる直前の詩。それは好きで書いている人のとは明らかに違うの。なぜならばポエジーだけになっているから。
だから詩に愛着ない三浦は偉い、ということではなくてね。メタ読みしようね。
もうひとついうと詩が嫌いなんだけど書いてしまう人の詩の方がわかりやすいよ。結果として三浦みたいなヴァカが読めるんだから。それもなぜだか判る。云わないけど。逆に云うと詩に愛着ある人の詩はウザ過ぎて読めない。これ簡単に書く書かないの問題ではなくてね。もちろん。