たとえ偽りに終わったとしても

趣味のこと書いてます。詩の投稿掲示板サイト代表のブログでしたが。

黄金狂時代、つまり昭和プロレス

1976年。ウィリアム・ルスカが両手を大きく広げ、猪木と対峙し、その4ヶ月後、日本武道館のリングでは猪木対アリ、所謂、世紀の対戦が行われた。私は小学校2年生だった。この年1976年から前田日明が新日から解雇通達された1988年までのプロレスを何らかの形で残しておきたかった。
話が逸れるけれども、1945年の終戦時に二十歳だった人—戦地において理不尽な命令のままに人殺しを経験された元日本軍兵士の人―がいたとして、1976年とは、その人が50歳を越えた頃となる。人殺しの経験がある人々が観戦するプロレスはどういったものだったのだろうかと時々考える。力道山シャープ兄弟をリング場でやっつけるその様が戦後の日本人に勇気を与えたという話。そんなわけがないだろうと思う。当事者ではないから何とも言えないが。
幼少の頃からプロレスごっこに明け暮れ、高校生の段階で「プロレス者」という玄人を自負していた私からすれば、昭和プロレスの本質とは、センチメンタリズムである。過激なセンチメンタリズムという古舘伊知郎のそれは、正鵠を射ている。幼少の頃の私はプロレスの試合を観ながらよく泣いた。

止むに止まないプロレスへの愛着を語りとして昨年残しておいたものをまとめてアップした。これは私の中のプロレスであってフィクションである。現実にあった時系列とは合致しない箇所があることをお断りしておく。

soundcloud.com



二千年と十八の年

始まりがあって終わりがあるとすればそれが
星々でそれから、それから十八の君がいる。
月と太陽の始まりと終わりのあかりを
気がつかせてはくれないまま、そのままに
十二の弦を張り替え奏でる。
奏でる他に生があることを知れない。
二千年が始まる一日目に授かった女の子を
あかつきのね、暁音ちゃんと呼び、
歓びに泣いていたあなたは母親になった。
「母さんからは憎まれていたよ」
と死ぬ前に打ち明けた姉貴。
あなたが育まれた暁音は十八となる。
愚かな弟は守られていたことを知る。

赤い川

完全なるものが鬱陶しい
語られるほどに
無能な川底を回る魚のようで

湧き水を汲みに行った先
おねえちゃんがいう
「完全なるものは三千世界といってね」

「完全なるものは死なないんだね」
と意地悪に返した
髪が抜けて鬘をしたおねえちゃんは
顔すら動かせなかった
うわごとをしゃべるようになった
つたうきみの世は
三千世界でしょう

会いたくない僕を
呼んでくれと
正気な時の頼みごとを
人伝にきくと面会に行く
死ぬのはこわくないよと
そう云われたら泣いた

もういちど湧き水を汲みにいこうかと
おねえちゃんを連れて出た
新興宗教の施設みたいで
寝心地が気になる宿
久しぶりにふたりで寝た
目が醒めたら
天井をみたままの姉が
死ぬのはこわくないよと
また云った

ひとりで部屋を出た
夜が明けだしの外の林道
見下ろせば
赤い川の水面
さきにいった父と母の
生死をおもったら
おねえちゃん、一緒に帰ろうって

つたうきみの世は
三千世界でしょう
おねえちゃん、けしうはあらず

 



ラジオ番組は約束を守る

くたばれビーレビューの冒頭にある、純度のことを教えてくれた少女とは彼女のことで、彼女とは出会った当初に「ラジオ番組をやろう」と語り合っていた。ということを私は忘れていた。ラジオ番組をやりたいという話を井塔由梨氏から持ちかけられた当初、彼女のことは念頭になかった。計画が進むうちに、彼女が適当かもしれないと思いながらも、最近どのような様子かもわからず、声をかける際には少し躊躇いがあった。パーソナリティを引き受けてくれた彼女と井塔由梨氏によるサンプルトークを聴いた時に、デジャヴを覚えた。これは気のせいだろうかと思いながらも、不思議な感覚があった。
先日、彼女に思い切って尋ねてみた。以前、ラジオ番組をやる約束をしていなかったかと。彼女はそういった語らいをしましたねと、記憶を蘇らせてくれた。さて、2017年の5月の彼女にラジオ番組をやろうとなぜに私は語っていたのだろうか。思うに、みうらくんがお得意な突拍子ネタだったのだろう。いよいよ11月2日に放送が開始される。最低でも1年間は続く。彼女とはまだ1年後のことを語り合っていないのだけれども。

写真は先日、自宅に帰った時、キッチンに貼ってあった家内のメモ書き。言葉にすると現実化するらしい。

f:id:katsuji-miura:20181015214801j:plain

 

なぜブロンコビリーのハンバーグなのか

今週のお題「最近おいしかったもの」
はてなのお題にエントリーしてみることにした。はてなPROにアップしたからにはサービスをとことん楽しみたい。で、今週のお題は「最近おいしかったもの」。
ステーキを食べたくなったら私の場合はステーキガストに行く。ステーキガストのバイキングメニューの充実さは他のチェーン店とは比較にならないほどだ。パン、カレー、サラダ、種類が豊富。ところが本日はなんとなくな気持ちでブロンコビリーへ行くことにした。ブロンコビリーのバイキングはサラダに限定されておりステーキガストと比較すれば残念な気持ちにもなるが、ブロンコビリーのハンバーグがとても気に入っている。ハンバーグにはジューシー感が求められると思うが、私的にはジューシー感というその表現に違和感がある。汁がじわっとなあれは錯覚だと思っていて、ハンバーグは密度と量だと思っていて。ジューシー(つまり汁が出る状態)は視覚の認知によるものであって、実際に口に運び味わうその感触は重さであり、歯ごたえだろう。それからすればブロンコビリーのハンバーグには他のチェーン店には無い良質なものがある。

f:id:katsuji-miura:20181014225228j:plain

ブロンコビリーのハンバーグ

 

くたばれビーレビュー

文字として書かれた言語は純度が高いと少女は云った。文字として書かれた言語は誤解を生みやすいとビジネスパーソンが云った。「文字言語を選び、闘ってきた詩にとって朗読は自殺行為だ」と詩人が教えてくれた。詩は説明書きではない。詩は物語でもない。詩を人々は共有するものではない。詩は断絶を表すことが出来る唯一の表現方法である。なぜならば、言葉として言い表すことが出来ないことを詩情というのだから。「現実を言葉で組み立てることは出来ないからいつも残念な気持ちになる」と詩人が教えてくれた。詩人は矛盾と闘っている。詩人の闘いは他人との共闘では無い。他人と解り合える詩など断じて無い。私とあなたは断絶であると教えてくれる詩があるだけだ。なのになぜ、見知らぬ者同士が詩を投稿し合うネット詩掲示板に私は居るのか。そこに現実以上の矛盾と原初の言葉があるからだ。矛盾の場所に誤解が生じる。表層のコミュニティーは嫌われ者たちを排除する。排除された者たちは勧善懲悪の欺瞞を告発し、その越境者たちは言葉に肉体を与える。それはとても淋しいことだけれど、越境者だけが持つ覚醒に私は鳥肌を立てていたい。共感はいらない。朗読会もいらない。リーディング大会も。パーティでもなく、セラピーでもなく、文字言語で闘ってきた詩だというのなら、孤独で残酷で、握りこぶしで黙って舞台を去るような、そんな不器用な人々が集う場所があればいいと思う。そうでなければ、合理的な人々が詩を死滅させるだろう。

子供の遊び場で君に会いたかった。かもしれない。

4月の人事異動で大阪赴任が解除になり、関東へ戻ることになった。その関係で、急に仕事が忙しさを増していて。気持ち的にはやり残しが無きようにSNS、そしてビーレビから身を引きたいかなと。そう思うと、2016年の9月に文学極道に投稿を始め、ビーレビの創立に関わってからの約2年、私はいったい何を目指してきたのだろうかと振り返ってしまう。はたして、なんだったんだろうね。
ネット上の人格「みうらくん」の奥底に流れているものは(そんな大層なことじゃないが)子供ココロというやつだったのかもしれない。元々なぜ文学極道に参加したのかといえば、小説を上手く書けるようになりたい理由があった。で、なぜ小説を書いてみたい気持ちになったかというと、小学校時の友人が40歳の時に自殺したことが理由としてある。その友人とは、私が内向的だった小学校1年生の時に一緒にプラモデルを作ったことが何度かあった程度で、所謂、親友だったわけではない。内向的だったほんの一時に遊んでいた友人。大人になってSNSでその友人を見つけた。私は声を掛けられなかった。友人は私がじっと観察していることを知ることもなく、SNS上の日記に一言記して死んだ。それから6年ぐらいぼんやりと、その出来事が自分のなかにあった。単身赴任生活が始まった。私は再び内向的な人間に戻っていった。その行き着いたところが「みうらくん」だったのかもしれない。
アウトサイダーという定義はいろいろあるかもしれない。私のなかでのアウトサイダーとは外れた者という定義だ。大雑把だけれど。それもルールで囲われた内と外とか、そんな単純な線引きでもなく、病気か健常者かというものでもない。なんとなく人の輪に入れないこと。アウトサイダー。とても残念な気持ち、そんなものを持っているんです。みうらくんは。

ビーレビの創設時から関わってこられたまりもさんと対談した。twitter上、掲示板上、そのようなネットの場について会話になった。その時、僕は、やっと気が付いたんです。子供の遊び場があってもいいじゃないかって自分がずっと抱いていた気持ちに。ビーレビ掲示板では今、参加者が選評をする投稿型の選評がスタートした。この制度が進化発展して、参加者が自らで作っていくサイトB-REVIEWになればいいと思う。運営するのも、方向性を決めるのも、全部、参加者がやれるサイトになればいいと思う。既にある、与えられたSNSではなくて、みんなが作っていける子供の遊び場があってもいいじゃんって思う。大人だけれども。
そんなことを思っています。

ビーレビは御存知の通りルールとマナーを厳守することを第一義として立ち上がったサイト。それに対峙して私はやってきた部分もあった。今回の投稿型選評のアイデアを出してくれたのは参加者のsurvofさん。彼は「みうらくん」に困惑していた1人だと思う。そんな彼が出してくれたアイデアを元に、なかなかマナーを理解しないみうらくんと対峙しながらマナー厳守を貫かれてきた運営の花緒さんが草案をまとめてくれたことが僕は嬉しい。これって子供らしい友達のでき方だと思うんだ。

来週の日曜日にあるイベントに朗読で参加されるまりもさん。是非、遊びに行ってみてくださいね。

youtu.be

 

覚書2018.03.13

『私も自分って宗教の信者だから。』 投稿者インタビューシリーズ第二弾:カオティクルConverge!!貴音さん♪

私は誤解を招きやすい言動が多い。他人への配慮が乏しく社会的に不適合だという自覚がある。代表を引き継ぐ時、一番不安に思っていたのは、自分の言動が原因となって、他人を傷付けてしまうことが起きないかと。

例えば、毎月の三浦個人選評。二月分を私はやめた。体調不良もあったけれども、3日も集中してやれば選評を発表することは可能だったと思う。べつに期待はされていないだろうけれども、最年少の百均氏なんかにしてみれば「他の運営スタッフが毎月大変な思いで選評やってるのに、三浦さんはお気楽なもんだ」ともしかしたら残念な気持ちになるかもしれない。そんな気持ちを察していながらも、私は裏切ってしまう。大したことではないかもしれないが、私のいいかげんさを表している。かもしれない。

 

昨年暮れより掲示板への投稿数が増えてきた。なかでも初参加の方々が見受けられる。

代表者の三浦とは、まったくとんでもない人物であると、思われる方々が多いかもしれない。そこで、痛烈な三浦への批判を覚悟して、もう一度、投稿者諸氏と話がしたいと、投稿者インタビューを復活させた次第。

第一回目に貴音さんを選んだ。なぜかわからないけれども、私がbreviewでやりたいことに大賛成してくれる人なんじゃないかと勝手に想像したので。私のような他人への配慮など無視する人間へも優しい若者なのではなかろうかと。つまり、私は今、投稿者から励まされて元気になりたいのだ。
大凡、貴音さんは想像通りの回答をくれた。ただ、一つ予定調和を覆す回答があった。それは、神仏、ある種の宗教的なるものへの怒り。貴音さんは作品「詩国お遍路」について「ほとんど自分の修行記録のような詩」と語っていた。その言葉から連想されたものは普段のエキセントリックなコメントや作品から伝わってこなかった実像と思われる「謙虚さ」だ。しかし、それだけが「詩国お遍路」から伺われる彼の実像を言い表す言葉として不足している。貴音さんが持つ怒り。宗教的なるものへの怒りとは自分へ向けられた怒りでもある。それはまた、私へも向けられた怒りでもあり、あなたへも向けられている。いいかげんな私に不足していることは他人への優しさとかでなくて、そんな怒りなのかもしれない。
ありがとう貴音さん。


—以下貴音さんへのインタビュー—


―もしかしたら、年齢、性別などを明かさないと決めていらっしゃいますか?それとも尋ねられれば開示されるのでしょうか?明かされないのであれば、その理由をおきかせください。明かせるのであれば詩を書いている経緯も含めてプロフィールを教えてもらえますでしょうか。この質問の意図は単に興味本位です。それは、貴音さんご自身は狙っていらっしゃらないかもしれませんが、貴音さんが掲示板で展開される作品とコメントには、ある種のエキセントリックな魅力があります。それはセルフプロデュースなのか、あるいは普段から持たれた地なものなのか、あるいは、ネット詩における匿名性から醸し出される神秘性を意識されてのことなのか。その辺りのことに興味があります。

貴音:私はネットでのプロフィールは基本性別は女性、年齢は平成二年生まれと答えます。それで人に接します。

信じるのも、こいつは男だなと決定するのも、もしかして男なのかな?と思うのも全て任せてます。

曖昧な方が色んな反応を貰えて面白いと思います。それは勿論、自他共に。

せっかくのネットなんですから、なりたい自分を作って出せるならネットくらいはそうしたいのです。

現実ではそういったの難しいじゃないですか。根暗なのに根明みたいに振る舞ったりするのですら、ネットは特定がなければ苦労やリスクが無いですから。

喋るオウムだったり、人工知能、記憶喪失、山から降りて来た仙人なんかにもなれますからね。

行き場の無い妄想の吐き出し場所、ネットで交流するにあたって現実の自分じゃつまらない、作ったキャラなら何かあった時のダメージが少ないってのがあります。臆病ですね。

名前だけ変えてやってる人は凄いなと思います。私よりも否定が来た時に苦しくなると思うんですよね。

んで、私のプロフィールはこうなります。

『プロフィール』
出身:宮城県
誕生日:8月18日
血液型:O型
利き手:基本は左手
家族:両親と兄、姉、私、弟、最近お爺ちゃんは死んじゃいました。
主な趣味:漫画、音楽、水泳
好きな食べ物は:桃、鶏の唐揚げ、寿司、ピザ
嫌いな食べ物:茄子料理、生以外の海老、ひじき
最近読んでいる漫画:スカイハイシリーズ、アゴなしゲンと俺物語、おーいメメントモリ
最近聴いている音楽:ミッシェルガンエレファント、ジャミロクワイ、ヴェイパーウェーブ(ジャンル)
好きな色:紫、インディゴ、ワインレッド
嫌いな色:ピンク、水色、肌色(人は除いて)
職業:精神科の看護師

取り敢えずこの辺をあげてみます。

私の作品やコメントにエキセントリックを感じて貰い嬉しく思います。恐らく、あげられた全てであると思います。自分で言うのもなんですが、家族も友達も、仕事場も漫画みたいに風変わりしてる人が多いですし、占いって信じます?たまに気にする程度なんですけど、宿曜は鬼宿でカバラは9なんでそれだけで判断すると得体の知れない奴になっちゃうんですよ。こんな感じで私の地があり、私の分身である貴音さんはこう思い、こうするってのを同期させてたち振る舞っております。これは神秘性の意識をしているとからだと思います。

詩のプロフィールとしては
こうなって当然だったのかも知れません。
母は小さい頃に昔話や寓話、創作物語を聞かせてくれる事が多く、感想や問い掛けをしてくるんです。「シンデレラと同じ足の大きさの人が居たら、王子様やシンデレラはどういった反応をすると思う?」とか

父は子供みたいな人で「俺がウルトラマンならメフィラス星人には勝てない」とか、映画も茶化しながら見ている人なんです。

でも家族で一番の影響は兄かも知れません。典型的な芸術に関心のある人間で、昔から小難しい事を考えてる人なんです。風変わりエピソードとして、小さい頃に寝てる時の現実を夢と教えてもらってから今もずっと夢日記を書いてる人間です。

そんな人達の環境に居たから、いつの間にか夢日記嘘日記を書く様になりましたし、架空のポケモンドラえもんの秘密道具を纏める癖が出来ました。私の原点だと思います。

んで、知らぬ間にポエムを書いていたんです。だけど、詩を書こうと思う出来事が中学に有りました。

順番は定かじゃありませんが、Mステでt.A.T.u.がドタキャンしてミッシェルガンエレファントが二回演奏した時に、歌詞の意味は分からないけどとにかく演奏も含めて全て格好良くて、電気が走る感覚を覚えました。スピッツを聴いていた時には無い感覚でした。

家にパソコンがやって来て、ネットサーフィンしていると「つとむのニコニコホームページ」ってワケわかんないサイトに着きました。言ってる事が分かんない、何かヤバいと思いながら何度も見る様になって、詩を書こうとなりました。

次に2ちゃんねるの詩板で、藪鳩って人のもっと詩をくれってスレでこんな感じのを書きたいと思うようになり。後は他のバンドやらネット詩人さんに触れてって感じです。

 

 
―貴音さんの作品だけでなく、他者の作品にされる貴音さんのコメントからも、独特なものを感じます。コメントにユーモアがある。そして他人に優しい。貴音さんはご自身が持たれてるユーモアについては、どのようにお考えなのでしょうか?どなたかの影響がありますか?また、他人との関係、コミュニケーションについてはどうでしょうか?
最近の私自身のトピックでもありますので、率直に訊きますが掲示板における、他人の作品への酷評について、これをどう思われますか?


貴音: 基本は酷評や厳しい事はあまり言わない様にしています。現実じゃ出来ない事の1つとして、良い所を見付けるってのをしたいし、養いたいからです。皆がこう言うからそうしたくない気紛れや、酷評する役があるなら、そうしない役にしようって気持ちも含んでいます。それか短に私が悪い読者だからだと思います。

例えば、「青い月」ってワードがあったら他の人は何で月で、色は青なのかを前後の繋がりから導いて評していると思うのですが、私が思い浮かべるのは青い月の姿形ぐらいです。メッセージを込めたい人には申し訳ないですけど、私は大概はこの辺が精一杯の人間です。青い月もちゃんとイメージ出来てるかすら怪しい時があります。深くちゃんとしっかり読めないから、こんなのになっているんだと思います。

皆さんは何を基準に1つの詩を良い悪いと判断するのでしょう?やはり伝えたい事があるか、風景が浮かびやすい、独自性があるか、作者の人柄や地位、自分のやりたい詩風に近いの五大要素でしょうか。実際はこれだけでは無いんでしょうけど、私はその辺が欠けてると思っているので、他のを取り入れる様に努めております。

この詩は女性なのか、字の色使い、視覚で見た硬度、口に含んだ場合の味、嗅いだときの臭い。そういった類いのも引っ張って考えたいと思ってます。何言ってんだと思われるでしょうけど、逆にしないで酷評しちゃうのも勿体無いです。良くも悪くも取り入れると変わると思います。

ユーモアについてですが、面白い事無き世を面白くって言葉を誰かが言ったらしいです。だから、インドア型の人間らしく頭の中で膨らませる様にしています。生意気ですが、現実の出来事より頭の中で考えてる出来事の方が面白いです。その気になれば常に何か起きてますからね。

実在する漫画を参考に、脳内で連載してる漫画に都合良く取り入れながら何個も連載したり、架空のバンドのライブ演奏を想像したりと頭は充実してます。そうやって上手く行かない現実に向き合って、折り合ってます。私は夢想家なんでしょうかね。

本棚は人の足りない物で出来てるらしいです。私の本棚はギャグ漫画が一番多いです。漫画じゃないのだと、短編小説、設定集図鑑、サブカルチャー、エッセイ、爆笑問題の本ですかね。空想を充実させる為、何とか世の中を面白く思える為の本ばかりです。

爆笑問題さんには、社会の出来事は本当は面白いんだぞって教わったかも知れません。その延長線に、大喜利があります。答えの無い物に正解を出す(面白い回答)行為はとても楽しいです。

人との関係は、こんなのなので自他共に疲れると思います。職場では大概は気を張ってなきゃいけないし、プライベートでは「めちゃくちゃウンコの臭いするウンコと、ニンニクを沢山食べたウンコなら、食べ物であるニンニクウンコの方が嗅げるよね?」って聞いたとして、それを面白いと思う人もいてくれますけど、また何言ってんだと流す人も居ます。一番辛いのは「…え?わかんない。」ですね。私も変な事を聞いて申し訳ないですけど、そんな考えられない事を言ってる?って思ったりしてます。宇宙の果てとかよりましだと思うんですけどね。でも私は宇宙の果てを聞かれたら考えるんだけどなぁ…って思ったりしてます。

酷評は目的によります。ゲーセンの格ゲーで善良な人は、素人っぽい人に対戦を敢えて挑む事があります。接戦に作り上げて最後だけは持っていく。「あー負けた!もうちょっとで勝てたのにー!次は頑張るぞ」と格ゲーへの情熱を灯し、繋げる様な感じなら良いですけど、何か上手く行かない事や面白くない事があって、素人をボコボコに打ちのめして「格ゲーなんて、やるんじゃなかった…。てか、ゲーム向いてないんだな…。」ってさせちゃうのはどうしようも無いですね。

詩に戻すと、お前の感情や思想でせっかく詩に興味を持った人、書いてる人を潰すな。お前よりも面白くなったかもよ?と考えたりします。そんな私は愉快犯よりも、トリックスター。ハードボイルドよりルパン三世アンチヒーローよりもチェシャ猫になりたいです。

後、なんでしょう…Breviewさんはライトな感想や評価を許して歓迎しているので、叩き上げを望んでいるなら違う所に行けば良いし、独りでずっと書いていれば良いと思います。その方が互いに健康です。わざわざ合わない・合わせたくない・合わせられない所でやる必要は無いんです。

私も怒りっぽいので、向いてないんだとは思うんですけどね(笑)

 


―この質問は詩について、貴音さんについて、というところから外れた内容になるかもしれませんが最近どなたかに訊いてみたいこと、それについて質問します。
3.11についてどのように思いますか?もう一つ続けて質問します。貴音さんが生まれる以前のことかもしれませんが地下鉄サリン事件についてはどのように思われますか?この質問への回答は出来ない、ということでも結構です。貴音さんがこの質問から受けられる所感を率直にお聞かせください。


貴音: 「これから、大きな困難があるかも知れませんが~」って成人式で市長に言われたんですが、その一発目がこれかよ…と思いましたね。宮城県と日本と地球の厄年が重なったんでしょう。あの時は落ち込む暇もなく、他人と団結して生きましょうってノリでしたね私の周りは。

知り合いが死んじゃったり、安置所で鴎に食われたんだろうなと思われる赤ちゃんを見て涙も出ましたけど、見る前からある程度しっかり想像出来ていたので、人の死の受け入れは思っていたより簡単でした。

後、スラム街に生きる人達になってましたね。子供とか、流されて山になった車から飛び降りて遊んでたりしてましたし。スーパーでペットボトル飲料水を見付けてウホウホ喜んでましたよ。車壊してガソリン抜いたら、安否確認の為に車を走らせたり。他人とこんなに昔からの知り合いみたいに仲良く行動出来るのかって場面が幾つもありました。良い意味で大きい非日常にされたので経験はもう結構ですけど、無法状態の楽しさは有りましたね。

悪い面としては、私の知る限りだと消耗品じゃなくて金の強奪(ATMや死体の財布)、強姦・死姦、津波が来たから嫌いな奴を突き放した、列に並んでご飯を貰う時に遅いと怒鳴っていたお爺さんが木の棒でボコボコにされて多分死んだのを近くで黙認した事です。皆、ニコニコしてるけど不安や血の気に溢れてるのでそっちに行ってしまう人もいるのです。

運ってなんだろうと思いました。良い話では無いですが、当時SNSでしつこくてメル友になって私に会いたがっていた、リスカしてる男からメールが入ってたんです。「大丈夫ですか?」って。私は今までの事もあり、「何で死にたい言ってる奴が生きてんだ?死ぬ機会を逃して馬鹿かお前?お前が誰かの代わりに死ねば良かったんだ。もう無理だろうからウジウジ生きるか、自殺しろ。」って返信しちゃったんですよ。その後は返信来ないのでどっちかだとは思うんですけどね。

私は元々、親戚のお兄さんがバイク事故で死んだのを切っ掛けに神様仏様は信じなくなったんですけど、これで改めて思わされましたね。お兄さんの件がある前に、阪神淡路や地下鉄サリン911がありましたが私はその時、小さ過ぎたんです。

神が居るなら聞きたいですね。あんたの存在を嫌ってる私や、死にたがりのチキン野郎を生かしたんだ?って。信じる者でくたばった奴は、どう救われたのかを聞かせてもらいたいものです。

地下鉄サリンについては当時五歳なんで、鳥じゃないオウムが毒で悪い事をしたって印象です。ショーコウショーコウアサハラショーコウ♪って歌や、宗教アニメで座禅を組んで空を飛び出す、信者が座禅を組んで飛ぶ練習をしている風景なんてのは部分的に残ってます。日本が新興宗教を嫌う理由や無宗教の原因になったんじゃないですかね。

私も宗教の教えや神様図鑑は読んだりしますけど、崇めないですね。特に新興宗教ってのは既成宗教みたいに永遠になれない、ろくでもない者の集まりだと思ってます。入ってる人居たらごめんなさい。でも、抜けるんだとかそういったのは思いません。私も自分って宗教の信者だから。

後、この言葉を思い出しますね。凄くムカついた言葉なんですけど。「アドルノホロコーストの後に詩を書くことは野蛮と言った事を詩とせよ。」って言葉です。この言葉を言われたのは、震災の詩を書いた時なんですけど、はぁ?ってなりましたね。でも、経緯を説明して私のブログ内では落ち着いたんです。でも相手のブログの方に行ったら、なんか納得してなかったみたいでボロクソに言ってやったんです。

「お前は言葉を使って模様を書いてるだけ。言葉に遊びの無い、固い言葉ばかり。意味も発信しない死産して死後硬直している物ばかり。自称してるのと代わりの無い、間違って作家になってるお前が上から目線に人の作品を評して、 アウシュビッツのようなことを知りながら、のほほんと、詩を書くのは知的怠慢であり、野蛮ですらあるなんて人に言う事が野蛮である。」

こんな事を言ったら、ブログ閉鎖してましたね。まぁ、本人の為になるので良かったと思います。こいつの影響は強くて、私がネット内外で書く、ろくでもない物書きは全てこいつの事を書く様になりました。震災よりも忘れないかも知れません(笑)

極論ですけど、書いたら暗殺されるとかじゃなければ何を書いても良いと思うんですよ。震災や戦争や事件について。アドルノの言ってる事は私からしたら、「上の歯は下に投げないと変に生えちゃうよ。」「横断歩道は手おあげて渡ろう」と変わらない。世間に発する事じゃないんですよ。しかもコイツ、亡命した後にドイツでまた講演して罵詈雑言を浴びたそうです。ユダヤの血が入って危機を感じたから亡命は仕方ないと思うけど、傍観者で哲学なんて詩をしてる奴に言われたくないですよ。

世界平和であれと思うけど、人は元から野蛮だと思うのでなくならないでしょう。私は粛清をされない場所に居るのなら、弔いや未来への希望や、鬱屈や怒りとかを書きたいと思ったのなら、どんどん触れて行きますね。

覚書2018.02.02

藝術としての詩

「1月投稿作品」三浦個人選評

大賞作品 花の骨   桐ヶ谷忍
優良作品 該当無し
推薦作品 詩国お遍路(1/2,2/2)    カオティクルConverge!!貴音さん♪

 Ⅰ.『花の骨』コメント欄から

2018年1月投稿作品の三浦個人選評。大賞作品『花の骨』。まずは『花の骨』のコメント欄から注目したコメントを紹介したい。




・全体が小説風というのか、映画を観ているような感覚(まりも氏のコメントからの抜粋)

・<僕>の目線を通じて、彼女の言葉が綴られるという、僕と、彼女の、2つの目線が対比される構成で、2つの視点が共存する作品であるがゆえに、立体感が増している印象を受けます。(花緒氏のコメントからの抜粋)

・彼女と白百合を対象化している僕視点(エイクピア氏のコメントからの抜粋)

・花の骨という詩的な言葉がでてきますが、むりやり広げようとする感じがなくて、良かったです。(奇遇氏のコメントからの抜粋)

・生きることは、彼女にとって痛いことで、すでに生まれ変わった先を見つめているようですが、こんな風に誰かが、彼女の痛みを、そのまま痛んでいた時間が存在したのだと、なんとかして伝えたくなります。しかし読者の私にできるのも、やはりただ痛がり読むことだけでしょう。
私は、人間の他者に対する本当の優しさや、誰かの救いとなるような慈しみは、決して見えたり聞こえたりできるものには変換されないと信じているのですが、人生で時々、こんな風に人の心に寄り添い、寄り添われる時間が、誰も気づかぬうちに成立していればいいなと願っています。とても良いものを読ませていただきました。(緑川七十七氏のコメントからの抜粋)

・自らが抱いた疑問は自らにとって重要な意味をもっています。そういう点で冒頭の一行が非常に効果的です。(なかたつ氏のコメントからの抜粋)

・この主人公は、多分死ぬ事が約束されている未来があります。それは花と同じです。綺麗な花だからこそ、一番美しい時に死に、人間であるからこそ、全てを奪われた上で死にます。種を残す事は二人には出来なかったので、かわりに花びらを飛ばします。骨を茎に重ねる事でハイブリッドする。(百均氏のコメントから抜粋)


Ⅱ.『花の骨』は現代詩か

『花の骨』は優れた恋愛映画のクライマックスを切り取った脚本のような、あるいは、優れた恋愛小説の終焉シーンのような作品であることは、上記の各コメントを読んでもらえばお解りいただけることだろう。前後の場面・背景が省かれているとしても、読者を困惑させないだけの構造があり、フレーズに無駄がない。それは作者が持つ「必然へのこだわりの作業」が成立させた「技」ではないかと私は観る。内容について、一節挙げておきたい。

 


なぜ、花には骨がないのでしょう



多くの読者が好評を寄せる冒頭部分である。メタ的なテーマをまず最初に置くという、平易でありながら、文体としてはイージーに読まれがちな微妙なバランスを必要とするテクニックである。他にも優れたテクニカルな箇所が散見される。しかし、それらは高度なレトリックでもなく、難解な言葉でもなく、読解が難しい比喩でもない。もしかしたら、現代詩というジャンルからみれば、平易な作品だと評されるのかもしれない。

 そこであえて問う。

『花の骨』は優れた現代詩なのか。

 詩は偶然を含有する必然のなかにある。言い換えるならば、言葉に出来ない奇跡を、誰もが経験する日常の中へ転換する技術を詩というのだ。詩人とは、他者に視えないものが自身には視える人のことであり、視えたものを視えない人に観させる人のことを詩人と呼ぶ。それが超人的な能力ではなくて極めれば可能なテクニカルなものであることを『花の骨』は証明している。それが「必然へのこだわりの作業」。

人が言葉に実感を持つ時、あるいは言葉が実存として機能する時、それは、言葉について「他者が自分と同じ認識・気持ちを持っている」と確信する瞬間ではなかろうか。それを私は「必然」と呼ぶ。共感ではなく。人と人が理解し合えている、解り合えているというのは、自身の主観であり幻想である。その自己認識の域を出ない共感のことを私は「偶然」と呼ぶ。共感よりももっと先にある共鳴音、必然。

より多くの人に自身が書いた詩を共感して欲しいと願うことは、発表する行為が、書く行為に伴う限りにおいては、自然な発露である。ベタな言い方になるが、その共感を意識する作者の洗練する作業こそが読者へ、「必然」となった言葉を降らせるのだ。その必然は読者のレスポンスに含有される「事後」のことではあるけれどもしかし、作者が書いている瞬間にも存在していたはず。作者が書いているその時に。それは作者の意図からは外れる「偶然」ごとかもしれない。

もう少し踏み込んだ言い方をすれば作者は「平易な言葉・言い回し以外は使わない」と、枷を嵌めているようにも思える。失敗すればイージーな作風となるだろう、際どく微細な推敲の後が少なからず見受けられる。少なくとも私には、最近の作者の投稿作品のうち、『花の骨』以外の作品は優れてはいるけれども、突出した作品と見受けられたものは無かった。それは、タッチの差ではあるが、『花の骨』以外の作品は、平易な作品の域を出ていない。読者が望まずとも、その描かれる場を必然として浮かび上がらせてしまうような執拗なブラッシュアップは感じられなかった。

その作業は過酷な労苦ではあるが、天才こそが良作を書けることの逆、所謂、才能、知識がなければ良い詩は書けないとする論への反論として示したい作品としても私は賞する。詩を書こうとする者の誰もが、困難な作業を厭わないとすれば、良質な詩を書くことが可能なことを証明している。それこそがまさに、万人受けする詩作品ではないか。読んだ者が感動するあまり「自分には詩を書くことは出来ない」と、詩書きをやめたくなるほどの技が作品に宿り、それと同時に「こんな詩を自分も書いてみたい」と万人に思わせるもの。
醸し出す物語性だけでなく、万人受けする現代詩。その観点からも私は『花の骨』を大賞とする。

 

また、以前から述べてきた選評基準、「人生が書かれている作品か」について。本作が、この基準を満たしていることも以下の通り記したい。

私は作品に「作者が経験した事実」を求めているわけではない。作品から滲む生死観・思想から、作者の人物像を読者が求めたくなる詩。言い方を替えれば、それはオリジナリティとも言える。多くの読者が『花の骨』に「こんな詩を書く作者は一体どのような人なんだろうか?」と求めたとすれば、それは「オリジナリティ」を読者が感得したことに他ならないと思う。独りよがりからオリジナルへ向かうルートが直道としてあるのかもしれないが、多くの共感を得ようとしてたどり着く最果ての地には、客観視に曝され続け最期に残ってしまう、削り取られない自己の本質なるもの、つまりオリジナルが終着点にきっとあるはずだ。

 

 Ⅲ.自分のための詩は正しい

万人受けする詩が賞賛されるべき基準とする一方で、孤高を貫く詩を私は真っ当に評したい考えがある。それらの詩作品を私は、真っ当に落選させたい。偏頗な意見かもしれないが、共感等を求めてそうではない佇まいの詩作品が、あらゆる場所で入選され称賛されるのをみるにつけ思うことがある。そこにもし優れた詩情があるとすれば、安易に形として表せないことである。その形にならないものへ、無理矢理に枠を嵌めている違和感。あるいは、自由でありたい詩作品を鎖で繋ぎ止めんとするかのような。反権威でありながら権威に寄与するような。誰からの共感も必要とせず孤高を貫ぬかんとする詩作品を真っ当に賞するとは、誰にもその存在を知らせることなく自分だけの宝とすることではないだろうか。

話が逸れてしまうが、幾人かの投稿者が選評拒否宣言を出されている。個人的に私は、その宣言を好意的に受け止めている。

 

1月投稿から選ぶ推薦作品について。本当は隠しておきたい気持ちで推薦する作品を一つ挙げさせていただく。誰のためでもなく、共有共感を目的とせずに書かれた作品。
作者本人の返レスを紹介したい。

 


普段の私は直感至上主義でして
それには理由は様々あるんですが略します。
意味なんての普段は
後から幾らでも付くとも思ってます。

ただ、今回はタイトルの通り
詩のお遍路をさせて頂きました。
直感で書かないで突っ走らず
一つ一つの寺をしっかり歩いて
参拝する様に書いてみました。

お寺の言い伝えや名前
等にも向き合い
私はある意味、放棄していた
意味を持ち伝える
時間を書けて書く
その行為に向き合いました。

普段しない事なので、本当にお遍路の格好して歩いてるようでした。

1つ、3~4行になっていますが
私にはそこに意味を込めるのがやっとで
書き切るまでの道程は苦行で
何度も諦めそうになりました。

今回の詩を通して
詩とは何ぞや?
書くとは何ぞや?
意味とは、読むとは?
自分に問い掛けながら
書いて
出来上がった後に読みました。

立派な答えは出ませんでしたが
苦しくたって私は詩を書いていたい
詩を書くのは改めて達成感の連続なんだと
幾つか得る事が出来ました。

殆ど自分の修行記録のような詩ではありますが

その中で、良さを見付けて頂きありがとうございます。



詩国お遍路

 

 

お気付きだと思うが、私が以前より示す「より多くの人へ読んで欲しいと願いたくなる」という基準からは逸脱している。いや、真実のところでは逸脱していないのだけれど。

 

 Ⅳ.具体的な作品例により基準を示す

今回の記事はまだ続く。既に選評記事をこちらのブログに2回上げた。正直に白状すると、未だに自分の選評基準を明確に示しきった気がしないのである。何かモヤモヤする気持ちが晴れないのだ。そこで、今回、B-REVIEW掲示板への過去の投稿作品から、「この作品が今月投稿されていたら大賞だった、優良だった」という具体的な投稿作品を挙げて基準を示したいと思う。その作品についての評は書かない。
選評理由を察してくだされば幸いである。


鈴木清順が死んだあとに


詩論 ルドンの眼

 

 

Ⅴ.展示したい、売りたい作品を選ぶこと

作品ありき(多選の方向性)でなく、少数の作品を選ぶことへの私の拘り。その理由の一つとして、「自分が展示したい作品を選ぶ」というのがある。仮想の話ではあるけれど、「金」を介在させ「展示した作品を売る」としたら。

この意味合いがわかるだろうか?
昔は、本・作品の質の担保は出版社・販売する企業が担っていたのである。いや、今も担っているのだろう。しかし、詩作品については特異な傾向として、「買う・読む作品の質に担保がない」ということがある。否、その役割は権威ある各賞が担っているのだ。そこで、詩壇をイノベーションすることこそが存在意義だと当サイトを定義すれば、選者に作品が良質である担保責任を課すことがあるべき姿ではなかろうか。更に踏み込んで言及すれば、権威ある賞ではなく、「ど素人の感性がイチオシする作品」が多くの共感を得、売れたとしたら、それこそが本望である。そう覚悟するど素人の私には、優良・推薦として選ぶべき作品数は、僅かである。サイト運営を代表する立場の保身を考慮すれば、多くの作品を忖度して発表すればよいのかもしれないが、それこそ参加者が一番望まないこと。 選評の公平さについて現時点でベターとする方法は「自分本位で選評する」と、宣言することだと思う。それは選者が提示する審美眼への批判が公の場で伴うのだから、作者も選者も、読者に対してもフェアである。

 

Ⅵ.多彩な選者が少数作品を選ぶ

更にもう一つ、多選方針を取りたくない理由がある。多様な現代詩の定義を用いれば投稿作品すべてに良さが見出されることは自明である。例えば、無題で白紙の作品が投稿されたとする(ビーレビでは投稿規定NG)。そんな作品であっても多様な現代詩の定義は意味付けを可能とする。現代詩とは、全ての言葉、記号、あるいは白紙に対しても意味付けと価値を与えることが可能なジャンルなのだ。つまり、なんでも有り、なんでも読解を可能とする選者であればすべての作品が優良・大賞と読めてしまう。何が言いたいのか。私は「選者が作品を選ぶセンス」について、多いに話題にするべきでは?と主張したい。これこそが、詩界隈を更に面白い場にするトピックなのではないかとも思う。多選となると、その選者が持つセンスが見え難い。そこに多選を用いない理由が一つある。

一方で、注目される作品は多彩であるべきと考える。一人の選者が多くを選ぶのではなく、多彩な選者が登場し、意外な作品が次々と選評されることが理想ではないかと思う。選者がそれぞれ独自の感性を気軽に出せる場となって、当サイトが更に楽しく刺激的な土壌となることを切望する。

 

 Ⅶ.「藝術としての詩」

 私は来月も大賞に相応しい作品を楽しみに待つ。自らの知識量、詩作の力量は省みずに。
権威などクソだと共感する方。あなたが選ぶ感性を是非みたい。権威、箔付けでなく、ど素人の読者が自身の感性で選評をする。行先には新世界が広がることだろう。あなたが書いた偶然の詩を読んだ私が必然を以って等価交換する詩作品。私はこれを「藝術としての詩」と名付ける。

覚書2018.01.22

社交辞令より「良さがわかるよ」の一言を求める

2017年に観た映画でお勧めの映画を教えろと言われれば、沈黙~サイレンス~か、ハクソ―リッジを挙げるだろう。個人的にはプロレスラー天龍源一郎の引退ドキュメントが一番感動したけれども、他人に勧める作品ではないだろう。同じく、詩作品についても私は同じである。投稿作品の中からおまえが勧める詩作品を言ってみよとあれば、映画と同じルールで選ぶだろう。個人的に感動した作品と勧める作品は少しだけ違う。(但し、私が選ぶ「大賞」は個人的にも、オススメ的にもイコールです。それが普遍性というものでしょう。普遍を定義付けするのも個人の感覚の域を出ませんが)。人へ勧める作品を選ぶのに、もう一つ自分のなかでルール・掟がある。それは「おバカな視点は捨てない」ということ。
投稿作品を選評する姿勢としてよく聴く話。「真面目にちゃんと読んでいるか?」という問い。この問いの本質は「読解・批評を自説出来る程度以上には読めよ」ということなんだろうが、「詩はエンターテインメントか?芸術・学術か?」というトピックにも関わる話。無礼な物言いはダメなんだろうけれども、「これはつまらない」「これは良い」という一言が私は好きである。価値があるとか、意味があるとは言わない。一言で判断することを私は好きです。
他方、「作品から何も読み取られていないイージーな点数付け」がいかがなものかというリーディング界隈における物言いにも関わる話。客・読者は、万能な神では無い。少なくとも私はお馬鹿な読者だ。
もう少し平たく云わせてください。
「この詩、読んでみてよ、良さわかるでしょう?」と詩に興味のない中学~大学生に一読させて「うん。わかる。これは良いね」という返事をもらうことが可能な作品を選びたいと思っている。「可読性」とはニュアンスが少し違う。読めなくても、先のような返事を貰うことが可能な作品ってありますよ。
12月の投稿作品。今回は選評の経緯や理由は述べない。なぜならば、個人的に好ましい作品はたくさんあったけれども、私が他人に読んで欲しいと願い「うん。わかる。これは良いね」と返事がもらえるであろう作品は一作品だけだったから。

「12月投稿作品」三浦個人選評

大賞作品 該当無し
優良作品 該当無し
推薦作品 『literal』  完備

誰も期待していないと思う三浦個人の選評だから気軽に発表しているところはあるかもしれない。しかし、個人的な気持ちをいえば、B-REVIEWの毎月の公式選評へ、既存の詩誌やネット詩では有り得ない選評結果を期待している。なぜならば、B-REVIEWの存在理由はそこにしかないと思うから。既存の詩誌やネット詩で順当に出されるであろう予定調和な選評を求めるのであれば、B-REVIEWは永久に用を足さない場所であって欲しい。




終わりかたは決まっている

よくツィートしていることではあるけれども、私は、詩に対しての情熱とか思い入れは薄いと思う。詩が嫌いではないし、文学が嫌いなジャンルではないけれども、音楽と文学を自分が好きな度合で比較すると、やや音楽のほうが好き。音楽と詩であれば、音楽のほうが2倍以上好きである。そのような私は矛盾を抱えているようにみえるのかもしれない。いや、もしかしたら上っ面だけを楽しんでいる軽薄なおっさんに思われているというのが実情に一番近いかもしれない。そこで、今回は今年の最後の記事だということもあるので、思い切って、本音(自分で本音と思われる)を晒しておきたいと思う。

話は逸れるけれども、ついこないだまで、「掲示板運営の事情」的な内々な話はtwitterの発起人DMチャットで日夜会話を展開していた。いわゆる楽屋ネタのようなこと。時々、面白い話には加わるように心掛けていたが、あまり三浦は参加していなかったと思う。基本的に私は閉塞感が嫌いなのだ。なので、ここで展開している私の本音に近いような事柄を事前に発起人の人々へ伝えて許可を取っているなんてやっていないし、是非、意見などがあれば、twitter上で展開して欲しいと願う。ちなみに、こないだ花緒さんが私のtwitterアンケート案について「それはあまりにもいいかげんすぎる!」と苦言ツィートをされたけれども、まさに私が理想とする展開。

本来であれば、詩の投稿掲示板を運営する人間というのは詩に情熱があって、それなりに詩壇での経歴がおありの方がやられることが望ましい。私はそう思います。だから、私がやろうとしている「朗読動画投稿」「ランキング制」「全員参加型」などのアイデアを他のサイトで先にもしやられたら、否、他所のサイトがキャッチアップするようなことがあれば、私はB-REVIEWを辞めるだろう。もっといえば、私が来年目指している公共ラジオでの朗読番組のアイデアなんかも、他の方でやられる方がいらっしゃれば、是非、先にやっていただきたいと思う。何が言いたいのか。つまり、私が「こうしたほうが面白くない?」的なことが他でやられてないから取り組んでいるに過ぎない。というか、その実験が面白い。今回の選評「誰が何を選んだかを完全公開する」も、やってみて、とても面白かったし、私とは違う意見に一番ワクワクした。
だから、もしも、詩に情熱があって、B-REVIEWをやりたい!と思われる方がいらっしゃればお声掛けください。
創設者の天才詩人さんや他の発起人に怒られるかもしれないけれども、開始から10ヶ月が過ぎた現時点での状況を自負として言わせてもらえば、三浦個人としては文学極道と合併になっても良いぐらいの気持ちだ。ただし、大事なのは、今の文学極道は何にも面白くないということ。予定調和なことだらけで。だからB-REVIEWをやっているんだけど。
※当記事において良識に欠けた文章があった為、当初あった文章を一部削除しました。

覚書2017.12.19